三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実
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禁断のスクープ映像、その封印が遂に紐解かれた! 稀代の天才作家・三島由紀夫と、血気盛んな東大全共闘の討論会の全貌だ。時は1969年5月13日。東大駒場キャンパスの900番教室に、1000人を超える学生たちが集まり、三島を今か今かと待ち受けていた。旧体制変革のためには暴力も辞さない東大全共闘のメンバーが、この討論会の首謀者だ。世界各国が政治の季節に突入していたこの頃、日本でも自分たちの手で国を変えようとする学生運動が激化していた。今の日本では想像もつかないほど、センセーショナルな嵐が吹き荒れていた時代なのだ。そんな危険きわまりない若者たちが、「三島を論破して立ち往生させ、舞台の上で切腹させる」と盛り上がり、異様なテンションが充満している敵地に、三島は警察が申し出た警護も断り、その身一つで乗り込んで行った。
avashe.icon感想
反知性主義とは「知性による権力勾配があると思うべきでない」みたいな意味合い 反知性主義とは高い知性から来るものか、低い知性から来るものか?という三島の問いかけが印象的
知的エリートの寡頭支配に抵抗する、という目的意識を持っていることが高い知性からくる反知性主義かなと
これって対面する両者が努めて内面化してないと現代では成立しないだろうな、受験戦争でほとんどの人間が知性主義、またはその裏返しが身についているだろう
重要なのは反知性主義とは「知性という変数による権力勾配を無化する姿勢」を内面化できないと達成できないということだ、「頭良さそうな言動のやつはむかつく」という信念は結局裏返した知性主義になる
低い知性からくるものか?というのはシンプルにルサンチマン由来の反知性主義を指しているのだろう
現代では論的をDisるための言葉として使われがちで、こういう語用への皮肉なのかなと思った
「運動」は常に一枚岩なものではないことは分かるけど、さすがに芥が東大サイドの主要な思想家っぽく扱われてるのどうなんだ?
解放区という思想的な芸術の達成に重きを置いており、社会的な持続性に全く頓着してない
それは仏教のように個々人の主観の中では一瞬だけ変革しうるものかもしれないが
私の国では負けてない、という言動も認識論的な問題だから成り立っている
革命する側はその観念論から、言語とシステムが無い状態で多数の人間の生活を維持する方法論まで展開させる義務があるのでは?
映画内ではそもそも時間という概念がないので~と退けていたが、それならその思想体系内において、現に生存しなければならないこの身体についてどう説明しているのか
新しい生活様式すら提案できない思想に人がついていくわけないだろ
まぁ現代的観点から言えば「金持ちのエリートの子息たち(しかも女性が全くいない)が観念的な遊びをしている」と批判されるのは最もだろうし、なんでもかんでもマイノリティを考慮すれば良いってもんじゃないと思う私ですらご尤もと言わざるを得ない
富野の反エリート主義ってこういうところの反省からきてるのかなーとか思ったりした
一方でこの時代に反米愛国の精神で真剣に議論をやろうとした、そういう情熱のある人たちが沢山いたということだけは(三島がいう通り)肯定的に受け取ることができた
現在は熱っぽい議論はダサい扱いを受けるし、政治的な話は避けるのが普通になっている